2021年03月20日

お城へ To Go (赤穂城)

 今回は忠臣蔵で名高い赤穂城(60・兵庫)です。押印は平成21922日で、当時は急速に城が整備されているといった雰囲気でした。
 かつての空撮写真をみると、本丸内部にはドッカと赤穂高校が占拠しており、二の丸、三の丸も未整備のような感じですが、2000年あたりから民家が少しずつ減り、平成21年の写真では随分と整備が進んでいる様子が写真からも見て取れます。
 訪問時は、同日に姫路城を訪問してから、電車移動で伺いました。

 赤穂城は、甲州軍学に基づいて築城された城といわれ、屏風折れの土塀、多角的な曲輪、枡形虎口の城門などが特徴とされます。
 本丸の形状が、やや星形に近いのもこうした影響なのでしょう。軍学というものが実際にどこまで有効性があったのかはわかりませんが、平和な江戸期に入り、築城方法なども形而上的な虚学的な要素をはらんできたのではないでしょうか。こうしたことから、平和な時代における形式的かつ形骸化した縄張りであるという批判も目にします。

この城の歴史的な事件といえば、なんといっても忠臣蔵です。浅野長矩の代になり、松の廊下で吉良義央を切りつける刃傷事件起こしてしまい、長矩は即日切腹、浅野家断絶、赤穂藩も幕府領となってしまいました(ここから忠臣蔵が展開していくわけですね)。その後、永井家が一時入りますが、森長直が入ってからは森氏が12代続き、明治に至ります。
 近隣には、大石内蔵助屋敷地を中心に大正1年に創建された「大石神社」もあり、忠臣蔵を偲ぶことのできる城です。

 戦国期から平和な時代へと移行していく中で、城の形態も戦闘を前提にしたものから、都市の発展や交易との関連を重視するものへと移行していきました。そうした意味では、河口の三角州に、海に面して築城されたこの城は、いわば晩期の築城の特徴をよく示すものともいえるのではないでしょうか。

 時代時代によって城の持つ意味は変化していくようです。そうした意味でも、この城の過度の縄張りの形骸化も、何らかの意図、意味、が前提にされていたのではないか、ということをナワバリストの西股先生は書かれています。では本当の意図、築城の前提条件、みたいなものは何だったのでしょうかね。個人的には養老先生の言うところの唯脳論的な視点が発現しているようにも思うのですが。

 ちなみに西股先生の著書を最近読んでいるのですが、これがとても勉強になって面白いです。通り一遍の城郭の理解しかしてこなかったことを痛感します。とりわけ山城に関しては新た視点を持つことが出来、これからの城巡りがより楽しくなりそうです。この城(赤穂城)への深い視点もとても勉強になりました。おススメです!



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決算!忠臣蔵
岡村隆史
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首都圏発 戦国の城の歩きかた
西股 総生
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