2024年07月23日

暗視野顕微鏡をみてソマチッドに思うこと、いくつか

 これまではあまり、ソマチッドなど顕微鏡関連の代替医療的なモノには首を突っ込まないできたのですが、昨年から光学顕微鏡観察を刺絡臨床にとりれたのを機に、いろいろと考えるようになりました。とりわけ今後はマトリックス研究会において、ウィスマーさんの暗視野顕微鏡を取り入れますので、具体的な実感を得られるのではないかと思っています。

 通常医学のワードとしては、ソマチッドはまともなものとして取り上げられないモノの筆頭になるかもしれませんが、代替医療界ではスーパーヒーロー的な存在。
 私もかなり懐疑的な立場だったのですが、新鮮血の観察から、数人の先生方が前向きに紹介されているものを読むにつれ、その存在を前向きに認識するに至りました。
 確かに、いわゆるブラウン運動として見えているものとしては、大きなものですし、動きもそれだけで説明がつかないようなものもありそうです。そこになんらかの未知の働きがあるように思います。ただ、それだけでは生命誕生のミステリーのようなストーリーには、急に展開できるほどの実感はありません。ましてやそこから生命体への成長の諸形態となると、疑問です。
 ただしこれは、それらが嘘だと言っているわけではありません。いわゆるソマチッドからの成長形態とされるものは、確かに観察されるし、大きな病態的な意義があることは間違いないでしょう。ただ、それが本当にソマチッドとされているものからスタートしたものなのか。いわゆるソマチッドの権威とされている先生方の語るストーリーに引っ張られすぎてはいないか。そうも思うのです。
 つまりここで仮に、成長としての形態変化と無理に考えなくても、新鮮血の観察における病態を示す何らかの病変もしくは病理産物として、現象学的に捉えることは可能なのではないのか。そんな視点の重要性を考えています。これまであまりにも、生命誕生や形態変化を中心としたストーリーの展開にこだわり過ぎていたのではないか、と立ち止まる視点も大切ではないかということです。
 病態におけるソマチッドの量的変化や運動性の変化は、今後、観察数を増やしてから再度考察するとして、諸形態はそれはそれとして「現象学的」に捉えていくという姿勢も必要なのではないかと思うのです。

 私たちは、知らないうちに大きなストーリーに巻き込まれ、その中の世界観に左右されがちです。糖質制限食を議論する時、「瑞穂の国」などのキーワードで押されたことを思い出します。その前の長大なる縄文時代は何処へ行ってしまったのか、さらには世界史の新たな潮流でもある狩猟民族の影響はどこへいってしまったものか、と。
 ソマチッドへの視点の変更には、ファシアへの認識が不可欠だと考えています。つまり、誰もがこの分野におけるファシア(とそれが含む体液)という視点を持っていなかった時の議論とは一線を画する知見が現在、見えているのではないだろうか。
 見えていても見えていないというのは、ファシア関連の分野では珍しくないものです。フッサールの「ガリレオは隠蔽の天才である」という言葉通りです。これまでの思い込み(思考の枠組み)をどのように外すかは、これからの課題ですが、こうした転回は、臨床的には大きな収穫が得られる感覚があります。

 手始めに、大きな躓きとして、末梢血と考えているものは、血管の内容物だけでなく体液も混入しているということ。つまりはファシア内部及び周辺、ないしはプレリンパともいえる液体を含んでいるということ。これは寄生虫的なものの解釈において、血管内の無菌性にこだわらずにファシアに付着したモノとしても観察しうるということ。電気的な振動によりこれらはファシアとしてあるコラーゲン線維から離れることが可能であること。こうした前提でみることで、かなり観察対象への解釈が変化するのではないでしょうか。

 これらの話題はファシア概念の展開としても重要なので、またの機会にこちらでも紹介していこうと思います。詳細に知りたい方は、直接聞いてくだされば詳細に説明しますね(笑)


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